2007/10
津山藩医 箕作阮甫君川 治


 JR津山駅前に箕作阮甫(みつくり げんぽ)の銅像が建っている。前号で紹介した宇田川家は江戸詰めの津山藩医であったが、こちらは正真正銘の津山育ちである。旧出雲街道沿いに古い町並みが続き、映画のロケ地として活用されているが、その一角に阮甫が育った家があり、文化財として保存され公開されている。ボランティアのお爺さん、お婆さんがおり、茶菓の接待をしてくれる。
 箕作阮甫は1799年に津山藩医箕作丈庵の子として生まれ、京都に出て医学を学んだ。その後、藩主に従って江戸に出て、郷土の蘭学者、宇田川玄真について蘭学を学んだ。
 箕作阮甫は津山藩医であるが、医学の範囲に留まらず広く西洋の文化に眼を開いており、幕府の役人に登用されて天文方の翻訳掛となる。蕃書調所が1856年に開設されると杉田成卿(小浜)とともに教授職となる。ここでは蘭書の翻訳、海外事情の調査、外交文書の翻訳のほか、洋学の教育機関として後進の指導に当たった。
 1860年頃になると蘭語以外に英語・仏語・独語・露語などが必要となり、蕃所調所は1862年に洋書調所となり、翌年には洋学所と改称された。箕作阮甫は個人の私塾でなく幕府の機関を通じて後進の指導にあたっている。教授は先に挙げた2人の他に教授手伝いとして高畠五郎(阿波)、松木弘安(薩摩)、東條英庵(長州)、手塚律蔵(佐倉)、川本幸民(三田)田嶋順輔(安中)などがいる。幕府直属の蘭学者は独りもおらず、親藩1、譜代3、外様藩出身が4人である。この事実からも海外事情が全国的に広がっていた様子が分かる。
 箕作阮甫はロシアのプチャーチンが長崎に来たとき、幕府全権にしたがって長崎に行き、外交交渉に参加しており、翌年の日露和親条約締結にも同席している。
 津山洋学資料館には阮甫が翻訳した本が展示してある。日本最初の医学雑誌「泰西名医彙講」や「外科必読」「産科簡明」などの医学関係書物だけでなく、「和蘭文典」「八紘通誌」「水蒸船説略」など語学や歴史、技術にまで及んでいる。
 津山城公園に市の文化会館があり、ここにも箕作阮甫の胸像がある。箕作阮甫の生家を管理しているオジサンとオバサンの話を聞いても、矢張り宇田川家より箕作家に親しみを抱いている様子が分かる。
 蕃所調所の同僚松木弘安の縁で箕作阮甫は薩摩藩島津斉彬の侍医となり、蘭書の翻訳を依頼される。彼が翻訳した「水蒸船説略」を基にして、薩摩藩は蒸気機関の研究を行い蒸気船を製造している。
 箕作家は日本有数の学者一家としても知られている。孫の菊池大麓は数学者で東京帝国大学総長、京都帝国大学総長、文部大臣を歴任し明治の教育界の大御所であり、同じく孫の箕作佳吉はアメリカに留学した動物学者で御木本幸吉の真珠貝の養殖を指導した人だ。菊池正士は電子線回折実験で世界的に有名な物理学者である。
 箕作家一族は幕末から明治にかけて医者・学者・各分野の研究者であると共に教育の分野で多くの貢献をして次世代の若者を育てている。




君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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